4. 宇宙シミュレーション仮説について

宇宙シミュレーション仮説は、我々が経験する現実が高度な技術を持つ存在によって作られたシミュレーションである可能性を提案する仮説である。この考え方は哲学的な思考実験の一つであり、科学、哲学、技術界で議論されている。この仮説は、2003年にオックスフォード大学の哲学者ニック・ボストロムにより「Are You Living in a Computer Simulation?」という論文で提案された。論文は14ページほどの短いものである。

ここからは、論文とAIなどで調べた結果をもとにした、ボストロムの主張とは関係ないことを承知した上での愚考・妄想である(^^;)。
ボストロムの議論は、ある文明が技術的に十分に進化すれば、先祖のシミュレーションを作成する能力を持つようになる可能性が高いという前提に基づいている。そして、そのようなシミュレーションが多数作成されるならば、我々人類がその一つに住んでいる可能性が高いと主張している。
高度な技術を持つ文明がこの宇宙をシミュレーションしているとして、完全に設計通りに動作させることが可能だろうか。もし、完全に設計通りに稼働して、その中で我々の存在自体も設計通りだとすると、シミュレーションを試みる意味は無いだろう。つまり、その高度な文明において、我々が知っている非線形現象、確率的振る舞いのような状況がある場合において、シミュレーションをする意義があると考えられる。例えば、我々の宇宙においては「鑑賞して楽しむカオスと調和の美」を見て分かるように、非線形な微分方程式で表せる系では、カオス状態が生起される。つまり、シミュレーションによって生成された宇宙であっても、その振る舞いを予測することはできない現象がある。だとすると、例えこの宇宙が、そして我々の存在がシミュレーションだとしても、シミュレーションを実施している存在に管理・制御できない状態があり、その結果、我々自身にとっても我々の存在自体に意味が生じると考えられる。つまり、シミュレーションを実施している存在にとって、我々は未知な現象になるので存在意義があることになる。そして、我々自身が意思を持って自律的に活動している可能性も出てくる。それによってこの宇宙の外の存在、つまりシミュレーションの実施主体を垣間見る機会の確率も零ではないだろう。そしてそれが神との出会いかも知れない。
では、シミュレーションの中で我々生命とは何を意味しているのだろうか。いくつかのシナリオが考えられる。
1)生命(知的存在)が「シミュレーション内で情報を処理する観測者」として機能し、宇宙の状態を確定させる役割を担っている可能性。つまり「観測者としての生命」とすると、不確定要素の実体として生命が存在していると考えられる。
2)生命はテスト対象。この場合、進化のシナリオの検証、社会の発展の観察、倫理的・哲学的な実験、が考えられる。この場合、生命は「シミュレーションの変数」として扱われている可能性がある。
3)単なる受動的なデータではなく、自己進化するアルゴリズムである可能性。この場合は、宇宙が「仮想の生命の繁殖システム」であり、生命はシミュレーションの「成長要素」として機能していることになる。
4)生命とはただの「データ処理の結果」に過ぎない可能性。この場合は、生命は特別な存在ではなく、シミュレーションの単なる出力データと考えられる。
これらのシナリオは、我々がシミュレーションを想定した場合に考え得るもので、あまり面白味はないが、1)のシナリオは、シミュレーション内に不確定要素の実体としての観測者を置くことで、シミュレーションの実施に意義を持たせることができるように考えられる。

ところで、この宇宙シミュレーション仮説というフレーズから、1960年代後半に読んだSF小説「百億の昼と千億の夜(光瀬龍)」が想起される。この小説では、我々が認識している宇宙が宇宙外の存在によって創造された可能性を描いており、その存在(創造主)は、人間を含む宇宙全体を計画・管理するものとされている。この小説を読んだ当時、神というのは、その存在を瞬間的に感じられたときの感覚ではないかと思ったものだ。そして、この中で登場する阿修羅王が、前述の不確定要素の実体としての生命体と言えよう。この小説は、宇宙シミュレーションにおける我々人類の存在意義を示しているようにも感じられる。
また、仏教が描くところの阿弥陀仏が統括する極楽浄土は、他の宇宙(他のシミュレーション)と解釈することもできる。仏教における極楽浄土には、阿弥陀仏の西方極楽浄土をはじめ、薬師如来の浄瑠璃浄土や弥勒菩薩の兜率天など、さまざまな浄土が存在する。これらは、多数の宇宙シミュレーションとも考えられるし、我々の宇宙の外にある宇宙とも考えられる。さらに、釈迦如来(お釈迦様)の説くところでは、釈迦如来の教えを実践することで「この世界を浄土に変える」ことが可能とされている。これは、我々の宇宙がシミュレーションだとしても、そこから外の宇宙に拡がることが可能と言っているようにも思えて我々の存在意義に希望を与える。